魔法の手を持つ職人さんと年代物のルイヴィトントランク
このページで、以前紹介したルイヴィトンの
年代物のトランクですが、先日、少々具合が悪くなりました。フランスで製作後およそ55年が経過していると思われますので、持ち手の部分の牛革がさすがに弱り、ひび割れていました。困り果てて、いつものように宇都宮の中心地にある「リペアショップ」を訪ね修繕を依頼しました。今日、完治して持ち帰りました。驚くほど、綺麗に丈夫に修繕されています。使用されている革ももとのルイヴィトン製品と変わらないレベルの素材で修理してくれました。この店のすごいところは、何と言いましても、魔法をかけられたように品物が息を吹き返すところ。そして修繕費が安価なところです。安いのに仕事の内容は極上級です。持ち主の期待を裏切らない仕上がりがうれしい。有難いことです。ブランド品や年代物の修理でお困りの場合は、早めに相談されるといいと思います。なかなか混んでいますので。魔法の手を持つ職人さんに感謝ですね。
暇つぶしに読む「Train Vert」
6月18日は、那須塩原から朝1番のなすの号に乗車して東京に出かけました。午前中に組まれている短い講義のためです。東北新幹線自体は1時間程度の乗車時間です。その間暇なので、いつもTrain Vertに目を通します。巻頭の記事、今月の駅弁紹介は、新潟県の海鮮寿司弁当。カニやエビ、ウニなどがすし飯の上にのっているそうです。新潟に行きましたら食べたいと思います。次の見開きは、沢木耕太郎さんの旅のつばくろ、という連載。
沢木さんの文章は、「テロルの決算」、「一瞬の夏」以来読んでいますが、この連載はネタ切れなのか切り口が凡庸でつまらない。文章もキレがありません。残念ですね。最近は読み飛ばしています。今月号はそのあとに東北に残る洋風建築の特集がありました。取材物で、写真がきれいでした。
狼犬の「犬」という文字は何と読む?
クイズです。以下の「犬」は何と読むでしょうか。「いぬ」でしょうか、それとも「けん」でしょうか。
狼犬、秋田犬、柴犬、土佐犬
→答えは おおかみいぬ、あきたいぬ(あきたけ
ん)、しばいぬ、とさいぬ(とさけん)、かいけん、きしゅうけん、です。NHKによれば、秋田犬と土佐犬のみ、両方の読みが認められているようです。難しいですね。
先日、狼犬が逃げ出して、20時間後に捕獲されるという二ユースを目にしました。
なるほど、オオカミと犬の掛け合わせという感じの顔でした。狼犬という文字を見ていたら、何故か、「犬狼星」という青白い明るい星を思い出しました。
おおいぬ座のシリウスのことです。すごく明るい星で、天狼星とも呼ばれています。
おおいぬ座の1番明るい星が犬狼星とは、犬と狼はやはりご縁があるのですね。
金色に輝く表紙のテレカ
先日の浅野ゆう子さんのテレカの記事に続いて、テレカの紹介です。かなり珍しいテレカです。これは「主婦の友」(現在は刊行されていない)900号記念テレカです。先日部屋の掃除をしていたらたまたま出てきました。金色のテレカで、すごい輝きです。この古めかしい女性は創刊号の表紙の女性のようです。「主婦の友」の創刊は1917年の2月のことですから、既に104年前の話ですね。随分、伝統的な出版社です。以前、何かの記事で、私は大分出身の知り合いが多いと記しましたが、主婦の友社の石川武美創業者も大分出身です。私は違いますが、社員で大分出身者がかなりいたような。確か、御筆政則常務(当時)も大分出身だったと思います。懐かしい話です。まだ中野区の沼袋に住んでおられるのか。
50年前の希少なルイヴィトンのトランク
50年以上も前に作製されたと思われる「LOUIS・VUITTON」のトランクです。私はこのトランクを45年ぐらい前に購入しました。田中康夫の「なんとなくクリスタル」公刊以前です。日本にブランド品の知識を広めたという点で田中康夫の著書は意味があります。彼の著書が爆発的に売れるまでは、LVは日本ではあまり知られていませんでした。もちろん、所持している人も多くはありません。かなり大きなトランクで、今はプレジデントとかいうトランクもありますね。購入金額は今とあまり変わりません。当時のほうがやや高めという感じでしょうか。LVのホームページをご覧ください。トランクのカギは稀少なもので、フランスの本社に鍵の№と名前が登録されているとか。相当に年季が入っているため、珍しい構造のトランクのようです。10数年前に、大学で刑法の補助ゼミを担当していた際、生徒の中にLVを退職して司法試験を受験するという女性がおり、このトランクを見せたことがあります。その女性曰く、「中に仕切りのないトランクは初めてみました。これは相当な年代物ですね」とのことでした。LVは、セールをやらないので、普通に購入するのは、高価でなかなか難しいですね。このトランク、使用したのはこの45年間で20回程度です。旅に出るとき以外は持ち運ぶには大きすぎますからね。
Ray創刊時の浅野ゆう子さんのテレカ
インスタグラムで紹介した、浅野ゆう子さんのテレカは稀少なものです。これは30年ぐらい前に雑誌「RAY]を創刊した際に、「RAY」創刊プロジェクトの責任者だった私が、広告主向けに企画した販促物です。
どういうわけか、家の中を掃除していたら偶然出てきました。浅野ゆう子さんは「RAY」創刊時の表紙モデルですね。何度かお会いしましたが背が高く、上品な方でした。当時はフジテレビのトレンディドラマなどで超売れっ子でした。あの繁忙期によく表紙に出てくれたな、と思います。当時、このテレカを30枚ぐらい持っていたと思いますが、いつのまにか、1枚になっていました。このテレカよりもさらに稀少価値の高いテレカがありますが、それはまたこのページでご紹介します。ところで、「RAY」という雑誌はまだ出版されているのですね。驚きです。編集長の名前を見てさらに驚き。私が会社を辞める頃に入社してきた、新人女子でした。地味で大人しい印象でしたので、こういう華やかな雑誌の編集長になるとは思いもよりませんでした。人生とは不思議なものです。
衝撃を受けた茨木のり子さんの詩
茨木のり子さんの詩「私が一番きれいだったとき」に出会ったのは、今から45年ぐらい前だろうか。書店で詩集を立ち読みしていて偶然この詩を目にした。その場で衝撃を覚えた。私はなんだか頭をガツンとたたかれたような気分になり、自分の生き方を見直さねばならないと考えたのを覚えている。特に私の心に響いたフレーズは、
私が一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった
という箇所である。太平洋戦争時の話だ。特攻で飛び立つ若者の姿も描かれている。
2002年の頃、私の著書の中でどうしてもこの詩を紹介したいと考え、茨木のり子さんに連絡をした。出版社の担当者が幸い連絡先を探してくれたのだ。確か西東京市にお住まいで、電話連絡をした。憧れの詩人なので、緊張したが、「私が一番きれいだったとき」に対する思い入れやこれまでの経緯を語ると、茨木さんはひと口返事で、「いいわよ」と了解してくださった。なんだか力強く元気な方だった。
人間には様々なめぐりあわせがある。青春時代を戦争に奪われた茨木さんの人生もその一つだが、忘れてならないのは、その時同年代の多くの女性が同じ気持ちでいたということである。
現在は、コロナとの悪いめぐりあわせで、つらい思いをしている人が多いだろう。でも、前へ進んでほしい。何もかもうまくいくなどということはないが、何もかもがうまくいかないこともないのだから。これは私を含めて言えることだ。
旧電通本社ビル、懐かしい。よく電通詣でしたものだ。
丹下健三が設計した旧電通本社ビルの解体が開始されたようだ。マスコミ勤務時代に、広告企画の仕事で、よく出向いたものだ。1Fのエレベーター前はいつも人だかりである。懐かしい。残念だ。当時、私の会社があった千代田区神田駿河台からは築地の旧電通本社ビルは電車では行きにくく、幾人かの社員と乗り合わせて、いつもタクシーで出むいたものだ。マスコミ勤務時代はそもそも電車に乗った記憶がほとんどない。電通のみならずどこに行くにもすべてタクシーである。古き良き時代だ。
運転手に、「電通に行って下さい」と、ひとこと伝えるだけで、聞き返す運転手がいないぐらい有名なビルだった。マスコミに勤務する者たちは、放送局を始め新聞社、出販社の人間も、毎日、電通詣でをしていたように思う。築地に隣接する銀座には電通通りという通りもあり、この通り沿いには高級なお店が並んでいた。いつだったか、テレビ局の役員をしていた叔父に連れられて電通通り沿いのクラブで飲んだことがあった。そのとき、複数の身なりの良い人たちが来店してきた。たまたま、叔父の知り合いで名刺を頂戴したが、電通の社員の方たちだった。
当時はCEDという社章を付けていたと思う。COMMUNICATIONS,EXCELLENCE,DENTSUの略である。人相が違う人々のように思った記憶がある。
ホリプロの堀威夫会長宅で頂戴した焼き物です。猫に小判です。
インスタグラムで既に紹介したこの焼き物ですが、正直なところ、どういう価値のものか全くわかりません。箱の上面に何と書かれているのかも、よく読めません。もう30年以上前の話です。この焼き物はホリプロの会長堀威夫さん(当時)のご自宅を訪問した際に、お土産に頂戴したものです。私はその頃、出販社で女性誌の芸能担当デスクをしておりました。ある日、堀会長とその奥様と親しくされている松井さんという方が、突然、堀会長の家にご挨拶に行こうと誘って下さいました。場所はどこだったのかよく覚えていません。東横線沿線か、小田急線沿線で、JRの沿線ではなかったように記憶しています。駅を降りてから、住宅が密集した入り組んだ道をかなり歩きました。地図があっても分からないような複雑さです。意外だったのは木造の家だったことです。古いけれど由緒ある邸宅でした。平日の昼間にお邪魔したので、会長は不在でしたが、松井さんが「百合子さん、百合子さん」と親しげに奥様のことを呼ばれていたのを思い出します。
当日は、よく取材していた堀ちえみさんのことや和田アキ子さんの話などをいろいろお聞かせいただきました。息子さんが電通に勤務しているという話も聞いたように覚えています。エリートの家系は違うなと思いました。それにしてもこの松井さんという人物、芸能界の大物とパイプが太く驚かされました。大手芸能事務所の社長さんはほぼ存じ上げているという感じです。凄い人脈です。