6月に講義しました医事法制の講義に関して、取りまとめをされている大学の名誉理事長先生から、講義を論評したレポートに目を通しておいてくださいと、提出課題が送られてきました。今回は、6年前の医療過誤論の50通を抜いて、70通というかなりの数のレポートが届きました。まずは、私が取り上げた講義に関心をお持ちいただき更にご論評を頂きましたことに深く感謝いたします。昨晩2時間ほどかけて、レポートのすべてに目を通しました。まず感じたことは、医学部医学科4年生の皆さんの真摯な学びの姿勢が私の胸に届いたということです。1つ1つレポートを精査しながら、学生の皆さんの医学に対する考え方と向き合い方に触れ気持ちが温かくなりました。有難うございます。全員のレポートを個別に論評はできませんので、全体を通じて多くの学生が取り上げている目立った論点に関して、感想を述べさせて頂きます。今後の学習の指針としてください。
印象に残りました論点としては以下の11点に集約されます。それぞれの論点に、多いものですと7、8名ぐらいが集中して論じています。
論点11
1 刑法の条文に反するというだけで、医師の行為が真実、罪になるか否かは微妙な問題をはらんでいるのではないか。起訴、不起訴の境界は曖昧であると感じた。
2 講義で取り上げられていた京都のALS患者の事件は、横浜地裁判決が示した積極的安楽死の4つの正当化要件を充足していないということはよく理解できた。その4要件のうちで、患者に死期が迫っていることという要件があった。しかしこの迫るという概念が曖昧である。数時間なのか、数日なのか、数週間でもいいのか、医学的に判断するのは難しいと思う。 3 安楽死法は日本には導入されていないが、判例法(あるいは裁判例法)の正当化要件を充足することで、積極的安楽死が正当化されるケースがあることに驚いた。 4 安楽死は医療の限界点に存在する問題であると感じた。 5 公立福生病院事案、北海道立羽幌病院事件の事例を通じて、医療の世界には白黒はっきりさせられないグレーゾーンの有ることを知った。 6 北海道立羽幌病院事件で、脳死判定をして治療の中止に及んだ医師の行為が正当化されるためには医師が独断で判断をせず、ⓐ複数の医師の意見を参考に判断すること、またⓑ自然に心臓死に至る状況であればそれを待つこと、という防御策は理解できた。ただし講義でも指摘されていたようにこれが真に理想の医療なのだろうかとの疑問を持った。 7 司法の医療に対する介入は謙抑的であるべきで、講義で示されていたように「部分社会」を尊重すべきである。
8 消極的安楽死(治療の中止)の問題に2025年問題がどう関わりを見せるか注視したい。 9 北海道立羽幌病院事件で脳死に近似した状態の患者を厳密には、何故脳死判定できないのか、その点は矛盾であると考えた。臓器移植法によらず、厳密な脳死判定ができればいいと思う。 10 公立福生病院事案で、40代の女性患者が長期留置型カテーテルの手術を拒否して死亡した事例は興味深い。何故なら、この問題の是非において、女性患者の自己決定権が都合よく利用されている気がしたからだ。問題の本質はここにあるのではないか。 11 安楽死の判決には1962年の名古屋高裁判決がある、この判断と横浜地裁判決を比較して考えてみる必要性もあると感じた。
11の論点は以上です。
それぞれに興味深い視点ですが、今後、医師として医学の世界で生きていく上で、考えておいていただきたいことを少し補足します。紙幅の都合で、①、②、⑤、⑥、⑩、⑪に絞ります。講義でお話ししたことと少々重複しますのでご了承ください。
1 この問題は⑤の問題とリンクしています。刑法の構成要件に該当しているからと言って、全て可罰的であるかというと、そうとも言えない。講義でも触れましたが、例えば、北海道立羽幌病院事件では、この女性医師の行為を北海道警は殺人罪の実行行為ありと見て送検したが、旭川地検は不起訴にしている。旭川地検は私の問いかけに不起訴の理由を述べませんでしたが、ここには大きく2つの考え方がありうる。1つは医師の行為にそもそも殺人罪の実行行為性が無いとみるアプローチです。もう1つは、医師の行為は殺人罪の実行行為性があり、死期を早めている可能性があるが、近接していずれ心臓死に至る状況であり、結果への重大性・単一性は低いので起訴しないとする立場です。 後者のアプローチは本来は殺人未遂罪と言えそうですが、可罰的違法性までは問えないのではないかと構成している可能性がある。難しいですが考えてみてください。
2 横浜地裁が示した4要件は、末期癌患者を想定した正当化4要件です。これをそのまま当てはめて当否を判断すれば完全にアウトです。何故なら、本件のALS患者には死期が迫っていないからです。ただ、肉体的苦痛の要件をそのまま当てはめるのは筋が違う。ALS患者は末期癌患者とは異なる。今後の課題として精神的苦痛をどう評価するのかの問題を論じねばならない。その意味で、この裁判例法を適用して同一平面で論じることはできないのだと、講義でお話ししました。配布したオランダ安楽死法の資料も活用して、更に論じてほしいと思いました。死期が迫るという概念に関しての質問がありましたが、数日では厳しいように思います。やはり数時間というレベルが妥当でしょうか。 ⑥これから医師になられる皆さんをお守りするという意味では消極策を打ち出すしかありません。脳死状態らしき段階で治療を中止すれば、疑念をかけられる可能性が生じます。腰砕けのようですが、身を守るためには致し方ありません。臓器移植法の制約で、そもそも厳密な脳死判定はできませんが、治療の中止に際してそのような判定ができる状況を規定することが、今後の発展的な議論につながると思います。
10 子の類型の1通は、女子医大生の答案でしたが、なかなか講義をよく分析しておられる。私が言いたいのもこの点で、患者の自己決定を尊重した結果、患者は亡くなりましたで済まされるのかという問題意識があります。生命は重要で、世界医師会の宣言にも生命を最大限尊重すると規定されています。その上で、自己決定権の行使と生命の尊重は比較衡量するとどうなるのでしょうか。更に熟考してみてください。大学の図書館所蔵「治療行為の正当化原理」も読んでみてください。 11 他の裁判例に目を向けるという姿勢は大変重要な態度です。しかし、名古屋高裁の裁判例は、息子が父親を安楽死させるという事例であり、医師が行為主体者ではありません。従いまして、比較の対象としては適してはいません。森鴎外の「高瀬舟」のような議論になりますね。 以上です。参考になれば幸いです。